朋あり遠方より来たる また楽しからずや(有朋自遠方来 不亦楽乎)
中学国語でも習う論語の一節ですが、個人的には図書券(図書カードの前身)の封筒裏面に印刷されていたものが印象に残っています。私も当社を承継してちょうど10年経ちますが、今年に入り旧友から相次いで仕事を頼まれ、この言葉を思い出しました。
①高校水球部同期
東京理科大学理工学部電気電子情報工学科で教鞭をとる近藤潤次准教授は高校水球部の同期です。私が家業を承継し脱一社下請を模索していた時に再会し、小型風力発電設備工事などを紹介いただきました。また、実習設備などの工事が発生する際はお手伝いさせていただいています。自らも第二種電気工事士免許を取得してはいますが、大学設備との系統連系は「プロに頼む」ように大学の電気主任技術者から要請を受けるそうです。
今回は太陽光発電設備の撤去で、先代の教授から引き継いだソーラーパネルとその架台を処分したいとのこと。産業廃棄物としての扱いが必要ですが、パネルは未だ発電可能とのこと。環境省のガイドラインでは、パネルは可能な限り再利用(リユース)を推奨しています。そこで、父が事務所屋上に設置した発電設備に増設すべく、当社の実習用として有償にて買い受けることとしました。
当社は三洋電気の代理店として屋根上ソーラー発電システムを設置していました。一時期は東京にも遠征し、私が住む目黒区の鉄道会社寮の近所で工事の際には、手伝いも行いました。しかしながら、同社の業績悪化に伴い工事請負がほとんどだった当社も受注が減少、最終的に同社の吸収合併に合わせて同事業から撤退しました。その後、東日本大震災が発生しメガソーラーブームが到来しましたが、父は森を切り開いてまで太陽光発電設備を設置することに否定的でした。ちなみに、当社屋上に設置された設備は施主キャンセルの在庫処分だそうです。
あれから20年、倉庫の奥に眠っていた荷揚げシューターなどを使って設置しました。また、東京電力パワーグリッド社への変更手続も実習の一環として任せましたが、当時の制度は現在と大きく異なり、変更申請も悪戦苦闘だったようです。
②大学研究室同期
流山市に住む星武志さんは大学中井研究室の同期、所属研究室決定麻雀大会のメンバーです。彼も私同様に県立浦和高校在学中に社会工学科を見つけ、ここを第一志望として東工大の門をたたきました。東工大クイズサークルの新入生歓迎大会には共に出場し、後年のアタック25出場を一番喜んでくれたのは彼だったかもしれません。修士卒業後は長く大手ゼネコンで開発に携わる本職のまちづくり専門家として、大学の専攻を見事に活かしています。また、現在居を構える流山市では区画整理審議委員を務めるなど、進境著しい同市を市井から支えています。
そんな彼から、自宅ホームシアターの間接照明交換工事を頼まれました。事前に対象品の型番も伝えられていたので、このくらいならと自分でと後継品を仕入れて現場に赴きましたが、コネクタの型が違ったため施工できず。現調10分、その後奥さん交えて同窓会30分で出直すこととなりました。
日を改めて伺いましたが、今度はケーブルの穴が壁の位置と合いません。既設品を外してよく見ると、機器に穴をあけて加工しています。おまけに、当日は自分の乗用車で行ったためドリルなど必要な電動工具は持ち合わせていません。自分は現調で何をみていたのか恥じ入るばかりですが、そこはゼネコン勤務の同期。自宅常備のドリルとヤスリを貸してもらい、器具を加工して無事設置完了。なお、掃除機まで忘れて最後に貸してもらったことは、当社若手には言えません。
③大学学科同期
大手損害保険会社で自動車事故の査定を担当する田中三徳さんは、同じく社会工学科の同期、社会工学演習では同じ班でした。在学中は新聞社本社でアルバイトし、社会学研究室から卒業後は損害保険会社に就職するという東工大卒業生の中でも最も「文系」的な人生を歩んでいます。岡山出身ですが、千葉には2回、計7年勤務し、今年3月までの3年間は千葉支店で部長の重職を担っていました。すっかり千葉に詳しくなっていますが、一方で「自慢するものが何もない」と口を揃える千葉市民を少し残念に思っているようで、地元民としては反省です。
田中さんの単身赴任中はコロナ禍と重なったため会う機会はほとんどありませんでしたが、離任にあたり3年しか使っていない家財道具の有効活用を相談されました。
そこで事務所の洗濯機、エアコン、電子レンジ、冷蔵庫を入れ替えしました。エアコン工事は普段同社では行っていませんが、太陽光パネルに引き続きベテランを講師として当社電気工事実習の教材です。
さて、冒頭の論語学而第一は「子曰く、学びて時に之を習う。また説(よろこ)ばしからずや」から始まりますが、これは同じ学問を志す仲間とのつながりを示唆しているそうです。さらに後段は「人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。」と続くそうです。家業承継から10年、それまで培ったキャリアを捨てたことを後悔し、また下請として蔑まれ忸怩たる思いを抱くことも少なからずありましたが、自分ができることをキッチリやり、見えたことははっきり言うことが「君子」につながる、のかもしれません。知命を過ぎて、友人を介して孔子様から励まされた思いです。