私が東京急行電鉄株式会社(現:株式会社東急)を退職したのは、2002年9月30日。丁度20年が経過しました。
退職を申し出たのは30歳、結婚してしばらくした頃でした。酔った父から頻繁に「帰ってこい」という電話がかかってくるようになり、最初は真意を測りかねていましたが、電話口の後ろから聞こえる母の声と考え合わせると、どうやら家業を継いでほしい、ということのようでした。
当時、会社ではグランベリーモール開業も落ち着き、本社SC開発部に勤務していました。本配属から商業施設勤務が続き同期から5年遅れでの渋谷デビューでしたが、大阪の東急不動産商業施設開発案件まで日帰りで参加しながら、当時最先端だった同社の不動産証券化手法を学んでいました。同社では投資計画を策定することを「収支をはじく」と表現していましたが、「商業施設運営」と「電気工事=家業」という2段階の現場を知ることが収支の1行1行に説得力を持たせ、自分の強みとなることを知りました。
そんな中、商業施設開発案件に本腰を入れるため、東急不動産への出向と大阪への単身赴任が決まりました。引っ越し先の同社マンスリーマンションまで決めたところで、社内事情から当初配属の事業部に戻ることとなりました。同時に本社に異動した初代グランベリー総支配人でもある課長から顛末(事業部間レンタル契約満了?!)の説明を受け、会社勤めという立場のリアルを思い知りました。
丁度その翌日、会社で「30歳研修」がありました。職務、職位、入社年次等一切関係なく同い年が集まり、来し方と行く末を話し合います。今でこそこのようなキャリア研修は一般的ですが、当時は終身雇用が当たり前。特に鉄道業は離職率が低く、自分で自分のキャリアについて考えること自体画期的な研修でした。なお、研修名は女性から相当不評だったようで、次年度以降名称が変わったそうです。

全社から30歳が集結

全社から30歳が集結

研修の冒頭のアイスブレークで、たまたま私が講師から指名されました
「尊敬する人は?」
「父です」
「理由は?」
「15歳で仕送りと勉強を両立するため自衛隊に入り、高校大学の夜間部を自腹で卒業し、会社を興して事業を継続しているからです」
「、、それは凄いですね」
この受け答えをした自分に、自分でも驚きました。研修では、仕事の満足感を左右する労働環境には「組織環境」「職場環境」「職務環境」があること、そしてキャリアの指向性には「垂直展開志向」「水平展開思考」「中心性志向」「安定性志向」があることを学びましたが、終える頃には自分の頭の中に「鶏口牛後」という言葉が浮かび、父と家業について考えるようになりました。大学で専攻した都市計画を職業にでき、あこがれていた「大企業のサラリーマン」にはなったものの、自分にはその適性がないのではと悩むようになりました。当時中小企業診断士試験を受験中でしたが、外部の独立コンサルタントの方々の姿を見て、こちらの方が自分に向いているのでは、と思うようになりました。

キャリア大穴プランで「家業に入り脱下請」を書いていました

30歳のキャリアプラン大穴は「家業に入り脱下請」

そして翌週、異動辞令をもらって元の事業部に戻り、駅ビル開発を担当することとなりました。同じ不動産開発部門であり仕事の内容は大きく変わりませんが、そこには名うての「クラッシャー上司」が待っていました。程なく「鶏口牛後」が頭の中で爆発し、3か月後には退職願を提出していました。勤続7年半、同期20名余の中で最初の退職でした。
とは言え、家業についての展望は全くなく、下請の辛酸を酒で紛らわす父のイメージだけが浮かびます。昨今巷間で言われる階級社会について、20年前当時において否が応でも意識させられました。自分がこのままサラリーマンとして踏みとどまれば、やがて生まれる子どもたちは「3代続いた都市住民」として適応できるのでは、とも思いましたが、一方で「上場企業の経営者は自営業者の子どもが多い」という話も耳にします。このタイミングで自分ができることは何かを考えた時、中小企業診断士(旧制度)の論述試験で暗記した中小企業大学校経営後継者コースを思い出し、その門を叩きました。ちなみに、父と同じく15歳の集団就職で岩手から上京した母は、こんな私の悩みには無関心でした。
さて、大学校の様子やそこで学んだことはこの場を含め何度か発信していますが、在学期間の10か月悩み抜いた末、卒業時には家業と縁を切ることを決心しました。涙ながらに父に頭を下げたところ、父も「これで良かった」と応え、お互い号泣しました。そして自分のキャリアを鑑み当時好況だった不動産投資ファンドに再就職しましたが、根っからの職人気質だった父は、これを「虚業」と認めませんでした。

あれから20年、その間に知見を蓄え、当社へ還元できるものも増えましたが、肝心の「経営者としての器」は未だ大成せずです。酒にこそ頼らないものの、理不尽な元請からの要求を「清濁併せ呑む」ことはできません。年初には千葉市新規事業創出支援事業の支援も受けましたが、進めるに従い自縄自縛に陥りプロジェクト中断に至りました。2人のプロ人材からは最後に「本当に新規事業をやりたいなら、会社の肩書を捨て個人で始めた方が良いのでは?」とのアドバイスをいただきました。

東急電鉄退職時、東工大卒業生の集まり「東急蔵前会」で送別会を開いていただき、そこで当時同社取締役調査役・環境活動推進委員会委員長だった故五島哲先輩からお声がけをいただきました。

宮下、家業を継ぐっていうのはな、楽じゃないぞ。規模じゃないぞ。

五島財閥3代目、東急建設社長として大変な時を過ごした大先輩からの言葉、今も心に刻んでいます。2007年に急逝されましたが、なぜかその年にだけ年賀状をいただきました
また、退職で悩んでいた頃、妻からは「どっちに行っても正解です。どっちに行っても、楽しんでいきましょう。」というメールをもらいました。母からの要請で私より先に当社に入り現在は経理庶務を担当していますが、この言葉も心の支えにしています。