前回からの続き

 結局水球部には入部しなかったものの、他にやりたいことがあるわけではありません。大学の授業も、一般教養科目として毎日「微分積分」「線形代数」「物理」「化学」の「講義」「演習」「実験」とガチ理系科目ばかりが続きます。また、1年次では各類所属学科の概論も学びますが、私が入学した6類では、建築学の基礎となる「図学」の正体は幾何学(数学)そのもの、私が志望する社会工学科も計画数理基礎という数学でした。やっと受験から解放されると思っていた理数科目に、それ以上に苦しめられます。しかしながら、皆周りを見ると涼しい顔、というよりむしろ楽しそうです。東工大生の恐ろしさを、ここに至って思い知らされました。
 何か「楽しいこと」を見つけようと大学サークルの新歓コンパを「はしご」しましたが、結局飲み回っただけ。居合わせた他大看護学部の学生には「顔色悪いよ、肝臓大丈夫?」と心配される始末です。同じ6類でクイズ好きの星武志君とクイズ研究会の新歓大会に参加したり、水球以上に珍しいサイクルサッカーを見学に行ったりしましたが、水球以上にハマれる自信がなく、入部には至りませんでした。6月には暇に任せて自動二輪免許を取得し、7月には新たに葛城水泳会(高校水泳部OB会)会長に就任した20期先輩で喫茶「かたふり」のマスター、秋山さんから千葉市水泳協会主催「こども水泳教室」インストラクターのアルバイトを紹介されました。そしてその先輩から改造されたヤマハFZR250を譲り受けたことで、東京の下宿と往復する「足」を得ました。
 結局、学内サークル等には所属せず、気が付くと千葉で古宮さんのアシスタントのようなことをしていました。古宮さんは葛城水泳会の事務局として矢継ぎ早に企画を立ち上げます。「葛城水泳会報」を拡充すべく、現役生に加えて自らの親世代となる旧制中学時代の先輩や歴代顧問教諭などから昔話の原稿を集めます。紙面構成は若手社会人OBに任せ、完成版は会費振込用紙とともに全国のOBに発送します。企画屋としての段取り、エネルギー、そして資金調達手法を目の当たりにし、工事完成後に代金を受け取るだけの家業下請工事との仕事の違いを思い知りました。

1991年6月母校プールに集う若手OB

1991年6月母校プールに集う若手OB

日本選手権予選で1勝!

 さらに、古宮さんは7月下旬に行われる水球日本選手権の予選会に「葛城水泳会」をエントリーし、選手として11期上で国体、日本選手権準優勝メンバーの西先輩(筑波大卒、大阪公立高専水球部監督)、8期上の永富先輩(早稲田大卒、現 みずほ銀行水泳部)など、関東大学1部リーグで直近に活躍した現役のレジェンドOBを招集しました。加えて3期下の2年生は「千葉高史上最強」の呼び声も高く、若手とOBが融合した戦力的にも恥ずかしくないチームが出来上がりです。その中で、私も浪人時代よりは体力が戻り、左利きを活かしてチームに貢献します。
 1回戦の相手は千葉水球クラブ。千葉県の教員と高校卒業生の混成チームで、他校同期の顔もありました。試合は、同点で迎えた終了間際に味方の反則退水による数的不利の中で、西先輩による劇的な反転速攻が決勝点となり、1点差で我が葛城水泳会が勝利しました。そして同日行われた2回戦の相手は桜泳会(日本大学)。これに勝てば本選出場ですが、あっけなくコールド負けで終わりました。
 一方、私個人としては二十歳の誕生日を待って水泳競技役員と水球審判員に登録し、本格的にレフェリーを始めました。古宮さんに同行して高校の練習試合を吹き続け、千葉水球クラブにも参加していた先生方にコメントをもらいます。登録完了後は公式戦の割当も受け、レフェリーとして全国区で活躍する先生からもアドバイスをいただき、自分の目指す方向が見えた気がしました。
 ところが、高校水球のシーズンは9月まで。最強世代の高校生は校内陸トレやスイミングクラブで泳力を高め、古宮さんも本業に戻ります。そして私が水球レフェリングを練習できる場所といえば、、、やっぱり東工大です。当時屋外プールのみだった東工大水球部は、週1回東大本郷の地下プールで同じ境遇の一橋大と合同練習を行っていました。私は退部した身ながらもそこに参加して笛を吹き続けました。そのうち先輩方からは「自分では泳がないの?」声を掛られるようになり、はたして入部を断った自分の選択が正しかったのか、中途半端な状態に疑問を持つようになりました。
 打込むものを見つけそこなったからでしょうか? 授業では数学、物理と単位を落として落第。希望していた社会工学科の定員に空きがあったため何とか仮所属となりましたが、失意の中で3月は27日間家業の現場に入り、憂鬱な状態で4月の新学年を迎えました。

つづく