2023年10月18日、千葉水球クラブ前リーダーの古宮一郎さん(享年71)がお亡くなりになりました。私にとっては、父以上に人生観に影響を受けた恩人です。哀悼を込めて、当時の思い出を振り返らせていただきます。
高校入学後程なく水泳部に入部し、水球を始めました。4月の最低14℃を記録した水温にも、足が付かないプールにも、片手で空中キャッチするボールにも、「水中の格闘技」というイメージからは拍子抜けするほど優しく楽しい先輩方にも慣れ、5月末に水温19℃で開幕した公式戦には1年生ながら出してもらいました。水温が20度を超えた頃になると大学生や大学院生などの卒業生が遊びに来てくれますが、3年生の先輩が「すごい強い船乗りが数年に1度プールに来るらしい」という噂を語ってました。長髪ひげの強面とのことでしたが、ある日本当に現れました。その正体は、母校水球部創始者にして初代千葉県代表、卒業後は東京商船大(現 東京海洋大)に進学しそこでも水球部を創設した20期上の先輩、秋山敏弘さんでした。職業は外航船乗組員という本物の船乗りでしたが、同年に退職したとのことで、1年生時のシーズンを通してプールで実地指導をしていただきました。
そんな秋山さんが翌年春、1期下の後輩、古宮一郎さんを連れてきました。小柄で飄々とした雰囲気で、練習後には「課題は3点。1つ目は、、」と定量的に分析結果を語ります。「頭を使った水球」などと言い訳のようなお題目を掲げながら大した作戦もなく、結局は体力勝負で泳ぎ負けていたチームにとって、目から鱗でした。県内20チームの中位に属し4部制の2部リーグで負けが込んでいた中、1戦毎に相手を分析し、対策の練習を行って試合に臨み、実際に勝ちを収めました。上級生の引退試合となる県総体では、1部リーグ優勝の格上市立千葉高校に対しても善戦しました。
7月に入り、最上級生となりました。放課後、夏休みも、毎日アロハシャツを着てプールにいる古宮さん。何の仕事をしている人か、普通のサラリーマンでないことは確かです。職業は「プランナー」とのことですが、高校生の理解の範疇を超えている、ことしか分かりません。仕事は「夜、寝なければできる」そうで、深夜11時から3時までが睡眠時間とのこと。「極端なこと」「エキセントリックなこと」「マイナーなこと」をこよなく愛し、普通ではつまらないと語る人生観は、部活後現場に呼び出される電気工事職人の家庭に育ち、普通のサラリーマンにあこがれを持っていた私にとって新鮮でした。
夏休みが終わる頃、新人戦が始まります。マネージャーや下級生のサポートを受け、11名の同級生ともに十分な練習を積んでいざ行かん。「今年の県千葉は違う」との下馬評も立っていました。しかしながら、古宮さんの「トリッキーな」作戦がことごとく反則判定され、35秒(当時:現行ルールでは20秒)の退水を命じられます。これを3回犯すと再出場できない「永久退水(略称:永退)」となります。東葛飾高校戦では私も含め4人がこの憂き目に遭い、そうなるとさすがに試合になりません。その後の同校との再戦でも同反則数負けとなり、最終的には敗者復活戦で2部リーグに残留したものの、不完全燃焼の感は否めませんでした。
新人戦終了後も10月末の中間テスト前まで屋外プールで泳ぎ、以後はサーキットトレーニングやハンドボールなどの陸トレがメインとなります。当時は千葉県国際水泳場も開業前で週末には近所の市民プールにも通いますが、「一般利用者の迷惑にならない範囲」での泳ぎ込みしかできません。数回に近所のセントラルスイムクラブ千葉のご厚意でボールを使った練習をさせていただきましたが、練習強度はどうしても下がります。この間に強豪校は温水プールで練習していると考えると焦りますが、仕方ありません。ハンドボールははじめは遊び程度でしたが、中学時代ハンドボール部の下級生が入り一気に本格化しました。特に速攻に対する対する意識が格段に高まり、水球にも大きく役立ちました。水球と同等にハンドボールにもハマり、部員同士誘い合って何度か都内まで日本リーグ観戦に行きました。体育館の観覧席で”WaterPolo”のロゴが入ったウィンドブレーカーを着た高校生の集団は珍しがられましたが、水球はそもそも公式戦の情報がなく、他競技から水球に役立つエッセンスを吸収しようと皆で楽しんでいました。
12月、商船会社を退職した秋山さんが1年間の準備を経て千葉市(現稲毛区)内に喫茶店「かたふり」を開業しました。名前の由来は船乗り言葉で「歓談」の意だそうで、そこで夜な夜な古宮さんから水球にまつわる様々な話を聞きました。全国優勝した前橋商業高校での合宿など競技経験もさることながら、高校卒業直後に行われた1974年地元開催の国体での大会運営にまつわる話を聞くにつけ、水球そのものにのめり込んでいきました。また、オフシーズンの部活イベントとして「部員全員が犬吠埼沖で泳ぎながら初日の出を見た」など自らの武勇伝とともにけしかけますが、私にはそこまでのプロデュース力はありませんでした。
元号が平成に移り、朝6時から夜12時まで泳ぐ春合宿を経て、最終学年になりました。GWには古宮さんの伝で都内の武蔵高校で行われる練習試合にも参加しました。言わずと知れた「中学受験御三家」ですが、実はインターハイ準優勝の実績を誇る水球の強豪校です。中高一貫で培われたテクニックとパスワークは年季が違います。その他、日本代表を擁する東京女子体育大学など普段見ることもないチームと対戦し、自分たちが井の中の蛙であることを思い知らされる一方で、十分通じる強みがあることも確認できました。試合にはGWを通じて数日参加しましたが、他の部員に先駆けて前乗りしたとき古宮さんの車に乗せてもらいました。ポルシェ356の白いオープンカーで、日本に数台しかない希少車とのこと。首都高速を走ると煽られ、武蔵高校では生徒から「写真を撮っていいですか?」と声を掛けられます。運転は「シフトチェンジにはダブルクラッチが必要」「ハンドルに癖がありカーブがきれいに曲がらない」「エンジンが火を噴くので消化器を常備」など面倒な感じもしますが、それも含めて楽しそうでした。
いよいよ最後の公式戦が始まります。小心者の部長として試合前には胃薬を飲み、ベンチサイド決めジャンケンは専属の下級生に担当させていました。そんな私を見た古宮さんは、試合前日の練習終了後「今日うちに泊っていけ」と自宅に招きました。近所のサウナで汗を流し、奥様の手料理をいただき、小学生のお子さん達と交流し、リビングに布団を敷いてもらい、起床後そのまま試合会場に直行しました。私の親には「本日息子さんを預かる」旨の電話を入れてもらいましたが、帰宅後父からは「あの不良中年と付き合うのはやめろ」と初めて自分の交流関係に苦言を呈されました。しかしながら、この荒療治もむなしく昨秋最終ピリオドで逆転負けした市立千葉高校に同じ展開、点差で敗れ、入れ替え戦では船橋高校にラスト5秒で引分けに持ち込まれて一部リーグ昇格を阻まれ、2部リーグ1位の第6シードで県総体へ臨むことになりました。
関東大会出場を掛けた準々決勝の相手は第3シードの安房高校。全国大会優勝経験もある強豪で、母校は第1回県総体から20年間勝利がありません。とはいえ、今年は初顔合わせ。向こうもこちらの手の内を知らず接戦となりしたが、最後は泳ぎ負けて5点連取されて突き放されました。これが引退試合となりました。
一方、こんな生活では当然学業成績も急降下。数学の定期テストは60点から5点まで等比数列で落ち込み、すでに浪人が決定的でした。古宮さんからは「大学は表も裏も紹介できないけど、就職なら紹介できる」と声を掛けられました。古宮さんの水球以外の一面を知るきっかけでした。
次回に続く