2年前、中学校を卒業する長男を連れて父から相続した鹿児島県曽於市の山林、休耕田に行きました。そして今春、次男も中学卒業。前回同様「お爺ちゃん15歳の上京物語」を追体験させるところですが、次男は無類の生き物好きで、小学時代は千葉市詩集に「うちのイモリ」という作品で入選する程。今回は休耕田でイモリを捕まえると意気込んでいます。そしてタモや水槽を持ち運ぶため飛行機は不可として、往路は新幹線で行くこととなりました。なお、コロナ禍も明け、全国旅行支援も手伝って人の動きが活発化しています。特に、前回同じく復路に利用する予定の寝台特急サンライズはプラチナチケット化しており、発売初日にみどりの窓口に並び、何とか確保できました。

千葉市小学生文集「ともしび」に入選掲載

次男作 千葉市小学生文集「ともしび」に入選掲載


 早朝に千葉を発つと新幹線で昼過ぎには鹿児島中央駅着。近所に住む6歳下の従弟が迎えに来てくれました。父には3人の弟妹がいますが、鹿児島県内には末子の叔母が残り、その子供である2人の従弟妹が暮らしています。1500kmの距離もあり頻繁に会うことはありませんが、叔母は年の離れた長兄として父を何かと頼りにしていたようで、現在も交流は続いています。叔母の近所に住む3歳下の従妹は看護師として最前線でコロナ禍を戦い続けてきましたが、やっと落ち着いてきたようで、久々に会うことができました。工業高校を出て大工になった従弟は自宅も古民家を購入し自前でリノベーションしています。二級建築士と宅地建物取引士の資格を持ち、今は腕と資格の二刀流で稼いでいるとのこと。彼が小学生の時にディズニーランドに連れて行ってから40年、すっかりたくましくなりました。
吹抜けと薪ストーブのある居間は従弟が自分で設計施工

吹抜けと薪ストーブのある居間は従弟が自分で設計施工

たからべ森の学校(旧財部北中学校)と財部北小学校

 滞在中の宿は、今回もたからべ森の学校にお世話になります。廃校となった父の出身中学校の有効活用と地域振興を目的として整備された農林業体験型の宿泊施設で、運営者は地元IT企業社長の小野さん。コロナ禍でリモートワークが一般化し、学校常駐でも業務に支障が無くなったそうです。学校自体も土日は体育館や校庭を利用するスポーツ合宿で常に満室とのこと。順調そうで何よりです。
 森の学校から徒歩3分ほどにある旧実家の隣には財部北小学校がありますが、残念ながらこちらも今年3月をもって閉校となりました。丁度卒業式、閉校式が行われる直前で、全校児童9名の歌声が体育館から聞こえます。父が通った最盛期には600名が在籍も、このまま行くと新年度に3名まで減る見込みとのことで、閉校式ができる人数がいるうちの決断を下したそうです。

曽於市報は閉校特集

曽於市報は閉校特集


なお、昔は小学校近隣には商店が点在していましたが、現在は全くありません。徒歩15分程の駅前スーパーも昨夏閉店しました。小野さん曰く「ちょっとした買い足しに利用していたが、地元の方は逆に郊外大型店での買いだめが定着している」とのこと。過疎化や少子高齢化以上にモータリゼーションがライフスタイルを変えているのでしょうが、高齢による運転が危険視される中、何らかの解決策が必要であることを実感しました。

助っ人先輩登場

 このように、ついまちづくりの視点で父の故郷を眺めてしまいますが、それもそのはず、出発前夜は元都市計画学会長でもある東工大社会工学科の恩師中井検裕先生定年退官パーティーでした。風力発電工事でお世話になった室田先輩など同窓が集まりましたが、その中に岡崎剛さんもいらっしゃいました。

中井先生もご卒業

中井先生もご卒業


 岡崎さんとは同い年ですが私が1浪しているため1学年先輩、でも岡崎さんは大学院からの入学なので研究室所属はやっぱり同期、という間柄。おまけに岡崎さんは修士課程修了後の就職先が東急建設で、お互い東急在職中の2000年グランベリーモール竣工式の受付で並び経った戦友でもあります。その後はシンクタンクを経て私より一足先に不動産投資ファンド業界に転職し、私の中小企業大学校修了後の就職相談にも乗ってもらいました。一時はJ-REIT運用会社社長も務められるなど業界では名を成しつつ、その知見を元に社会人学生として再び中井先生に師事し博士号(工学)も取得されています。
 その岡崎さん、今度は何と林業に転じるとのことで、その場の勢いで就業予定地である兵庫県から陸路鹿児島県まで来ていただきました。
スタッフの皆さんと記念撮影

スタッフの皆さんと記念撮影


 森の学校の教室グランピングで次男と3人相部屋で語り明かしました。
教室活用のグランピングルームは定員6名

教室活用のグランピングルームは定員6名


 山林は従弟が時折見回りしてくれていますが、自宅から60km以上の距離があり管理にも限界があります。樹齢60年程の伐採適齢ですが、ウッドショックによる木材価格高騰を考慮しても搬出加工賃を差し引くと収支は合わないとのこと。当地では古来山林所得を目論む投資対象として山林の売買が行われていたとのことで、ご先祖様が私のために購入したかと思うと、ぞんざいな扱いはできません。
 とは言え、平成に行われた地籍調査には叔母が立ち会うも一部筆界未定部分も残ったそうで、このままでは売却処分は難しいでしょう。前回来た時にはイノシシ親子が走り回り、今回付近には檻の罠も設置されていました。中学性とはいえ子供一人で遊ばせることは危険であることと、社会問題化している放棄地問題を自分事として実感しました。岡崎さんによると、やはり全国の山林は同様の問題を抱えているとのことで、社会起業家として今後これらの問題に真正面から取り組むようです。
 金曜日、地元大隅大川原駅には観光特急36ぷらす3が停車し、学校内のたかもりカフェも出店で歓待します。
金曜日のカフェは大隅大川原駅に出店

金曜日のたかもりカフェは大隅大川原駅に出店


 岡崎さんもお横断幕を持ち見送り。すっかり地元民です。
特急「36ぷらす3」出発をお見送り

特急「36ぷらす3」出発をお見送り

石亀、井守、生物部

 一方、休耕田は葦に加え低木も生え始め、用水路も決壊しています。大分前に整備されたと思われる小川の狭い谷津沿いに一列に並んでいますが、現在も耕作しているのはかなり下流部分からで、ここには動物除けの電流柵が張り巡らせています。次男は早速休耕田の草むらを掻き分け、小川にタモを入れ、丸太を返して裏を覗きます。高校では生物部に入ると意気込んでおり、私もこれに応えるべく天候リスクを加味して今回は4日間の現地滞在時間を確保しました。早速サワガニを数匹捕まえては水槽に入れます。高校への手土産にするとのこと。また、初日の夕方には生まれたてと思しき小さなイシガメを捕まえ、これも持ち帰りました。自宅には既に1歳上のイシガメ「コイシ」もいるので、帰宅後妻の提案で「イトシ」と名付けました。

イシガメ発見!

イシガメ発見!


 それに対し、中々イモリは見つかりません。3月はまだ早かったかと諦めかけていましたが、最終日に何とか3匹を捕まえました。

土地の「先祖代々」度

 さて、次男が自然探検をしている間、私は前回やり残したことを片付けるべく、鹿児島地方法務局曽於出張所に向かいました。曽於市は平成の大合併で旧曽於郡大隅町、末吉町、財部町が合併して成立しました。JR日豊本線は相続土地がある北部の財部地区を通りますが、旧国鉄志布志線が通っていた中部の末吉、南部の大隅地区の方が町の規模が大きく、国の出先機関は大隅地区の旧岩川駅跡地にあります。同じ市内ながら公共交通で移動するには一度隣県の都城市を経由する必要があります。思案していたところ、森の学校で車を貸していただきました。

法務局がある岩川合同庁舎。駅の名残はペイントだけ

法務局がある岩川合同庁舎。駅の名残はペイントだけ


 法務局では、相続土地の歴史を遡りました。平成中期以降の登記情報はインターネット上で閲覧できますが、それ以前は管轄の登記所で直接確認する必要があります。相続土地は小学校そばの実家およびその付近の畑が5筆、2km離れた場所に田と山林が5筆あります。それぞれ幼少期に祖父に連れられて遊んだ記憶がありますが、父が病に倒れた前後に叔母に場所を説明してもらい、改めて場所を把握できました。父は宮下「家」を継ぐため戸籍上曽祖父の長男として届け出られており、父への相続の一部は私が生まれる前でした。父の死亡手続に際し戸籍謄本を可能な限り遡りましたが、大正時代に役場が焼失したとこのことで、それ以前の記録は途絶えていました。
 そこで今回、土地所有の歴史から先祖を辿るとともに、今回の土地が果たしてどの程度「先祖代々」だったかも確認します。当社は父が創業し私は2代目ですが、それでも家業であることを強く感じます。それに対し父も、私は直接聞いたことはないものの、同じく家業であった鹿児島での農業に後ろ髪を引かれていたようです。先祖代々という言葉に必要以上に縛られないためにも、自分がこの土地の何代目かを確認し、その軽重を判断したいと思っていました。
 実家土地は私が高校入学までの本籍でもありましたが、登記簿によると明治38年に私の高祖父が購入したようです。戦前には何度か抵当権が設定されており、経済的苦境がうかがえます。父が語る少年時代の苦労話も思い出し、当時ここで先祖が踏ん張ったからこそ今の自分があることを、改めて思い知りました。
明治以来の手書き登記簿謄本

明治以来の手書き登記簿謄本


 一方、田と山林は戦後に曽祖父が自作農創設特別措置法に基づき所有権を得たようです。日本史で習った農地解放という言葉が自分の頭に浮かんだのは、高校受験以来でしょうか。当時の政策に基づき自分で手を動かす人のために渡された土地です。不在地主の私が所有し続ける必然性はないと思い至りましたが、と言ってもらい手もいません。
さらに、法務局では税務署から旧土地台帳の移管を受けており、無料で閲覧可能であることも教えていただきました。こちらも日本史で習う地租改正の成果物ですが、こちらは私の大学卒論テーマ。納税義務者として所有者が記載されていることから新たな発見があればと思いましたが、登記簿以上の情報はありませんでした。

不在地主の責任

 今回相談に乗ってもらった法務局の担当官によると、丁度1か月後の今年4月から相続土地国庫帰属法が施行され相続土地国庫帰属制度が始まるとのことで、パンフレットを渡されました。トウキツネというキャラクターも誕生しています。それによると、更地化した土地は一筆20万円を支払うことで国が引き取ってくれるそうです。ついに、土地処分にお金を払う時代が来ました。理屈の上ではゴミ(廃棄物)などと同様に不要なものは有償で引き取ってもらうだけですが、古来土地をめぐる争いの歴史の中で、私を含めこの感覚を受け入れられるのには時間がかかりそうです。自分の相続土地については、相続土地は地目変更に伴い固定資産税が免税額以下となったため現在金銭的な保有コストはありません。あとは所有者としての管理責任ですが、私の代は結局従弟に甘えるしかなさそうです。その上で当地を自分で処分するか、今回馴染ませた次男に任せるかは今後の課題ですが、家業と同様父が先送りしたことを鑑みると、相当な決意が必要であることは容易に想像できます。
 法務局に続いて、末吉地区にある曽於市役所に立寄りました。昨年新庁舎を設立し、旧3町に散在する行政機能をここ集約したとのことです。数年おきに市の農業委員会や農林振興課林政係から管理委託の意向調査が届き、その都度希望する旨回答していますが、その後具体的な動きはありません。そこで現在の扱いについて伺ったところ、休耕田は農地として既に不適との判定が下り対象外、山林は森林組合の手が回らないそうです。個人的に森の学校での林業実習林として使えないかと考えていましたが、これも森林組合の管理下で行われるとのことでした。
 帰りがけ、市役所近にある末吉駅跡に立寄りました。駅は公園として整備され駅舎は鉄道記念館として使用されています。バス停も健在です。ここを走る志布志線は廃止され36年が経ちますが、駅はやはり地域の要です。

末吉駅跡の鉄道記念館

末吉駅跡の鉄道記念館

千葉市資産経営推進委員

 話は変わりますが、昨夏から千葉市資産経営推進員の委嘱を受けています。サラリーマン時代に不動産投資ファンドのアセットマネージャー(資産運用担当)や資産マネジメントシステムのベンダー(提供者)として昔取った杵柄を役立てたいと考えて応募しましたが、たからべ森の学校はまさに遊休資産の有効活用事例。都合よく同委員会が鹿児島滞在中にWeb開催されたので、旧職員室だったたかもりカフェ食堂から会議に参加しました。宣伝含みで学校を紹介したところ、早稲田大学教授の稲生委員長のから「語弊があるかも知れないが、『過疎地の切迫感』を首都圏の政令指定都市としても見習った方が良い」とのコメントをいただきました。
 こうしてあっという間に4泊が過ぎ、大隅大川原駅から日豊本線経由経由で都城→宮崎→(特急にちりんシーガイヤ)→小倉→(新幹線)→姫路→(寝台特急サンライズ)→東京と乗り換え、18時間かけて自宅まで戻りました。長男は高校入学後生物部に入部しイモリとサワガニを学校に持っていきましたが、サワガニは先輩たちとともに食べてしまったそうです。男子高校生の武勇伝はどこまで本当か分かりませんが。