今月末は当社決算日。私が小学校入学時に設立され、45年が経過しました。
最古参の従業員は私が小学校6年生だった昭和58年入社で、勤続39年を数えます。当時の木更津事務所長の義弟で、前職はクレジットカードの売掛金回収とのこと。そこでの取立て武勇伝など「子供には聞かせたくない話」を母に吹き込まれながら初めて会った時は、パンチパーマでドスの利いた北総なまりと「怖そうなおじさん」そのものでした。
当時の私は日常的に当社社員と接していたわけではありませんが、実家には当社や元請担当者が夜な夜な集い、飲み会が行われていました。酒がすすみ場のボルテージが上がると、父の「いいか、お前、、」という怒声があがります。そこでなぜか私もしばしば呼び出され、とばっちりの説教が始まります。このような環境下で、私は社員のおじさん達から「賢ちゃん」と呼ばれ、準社員的にかわいがってもらいました。
高校卒業後の浪人時代には、予備校と同時に親からの半強制で自動車教習所にも入学し、運転免許を取得しました。夏休みには母校プールで水球に興じていたこともあり、周囲からは大学受験を諦めたと揶揄されましたが、秋になると自分でも不安になりつつ会社の資材搬送を手伝っていました。一度だけ冬期講習でお茶の水の予備校まで社用トラックで通学したことがありますが、クラッチの硬さに疲れて左足を引きずっていると、友人から「F1ドライバーか!?」とツッコまれました。
年が明けて2月19日、まさに大学受験当日でしたが、そんな個人的事情とは関係なく自宅では会社飲み会が開かれていました。そして先に帰る従業員を送るよう母に言われ軽自動車を出したところ、自宅そばの交差点で横から車高の低いスポーツカーが突っ込んできて、助手席を直撃しました。相手は何と中学水泳部の後輩、ということは現役高校生のはず。立派な暴走族に成長していました。
後輩を制し、すぐに歩いて自宅に戻り母に警察を呼んでもらいます。すると歩いて1,2分の交番から警官が駆け付ましたが、向こうは知り合いの様子。事故状況から先方の一時停止違反は明白のはずですが、どうも旗色が悪く、こちらが警官から詰問されます。パジャマ姿の小僧として舐められていたのかもしれませんが、受験当日で精根尽き果てた浪人生として動揺を隠せません。しかも一週間後には本命東工大の受験が待っています。
程なく、自宅で飲み続けていた当社従業員が集まってきます。いきなり職人集団に囲まれ、場の空気が変わりました。父が警官に声をかけると「酔っぱらいは引っ込んで」と言われ、激昂して自宅に戻りました。次に、パンチパーマのおじさんが「これは、どう見てもそっちが悪いよな」というと、警官は何も言いませんでした。そんな中、別のパトカーが駆けつけてきました。父が再度110番を掛け「もっとまともな奴をよこせ!」と怒鳴り込んだそうです。以後、現場検証は後から来た警官によりスムーズに行われました。
これで私も「当たりが良くなった」とポジティブに考えられ、何とか合格。パンチパーマのおじさんのおかげで、東工大に入学できました。在学中は学費と仕送りの条件として、夏休みと春休みは現場仕事に従事する約束でしたが、パンチパーマのおじさんにも何度か現場に連れて行ってもらいました。卒論が終わった4年生の春休みは卒業旅行の合間だけの最後のご奉公でしたが、「綜合電設、継がないの?」と聞かれました。大学で学んだ専攻を活かすべく東京急行電鉄(現:東急)に就職する旨を報告すると、「そうか」とだけ言われました。
それから20年、父が病に倒れ私は家業に戻ってきました。当時お世話になったおじさんは、還暦を迎えていました。これまで父より年上で自主的な引退をした高齢者は何人かいましたが、いずれも50代でした。就業規則上の定年は60歳ですが、顧問社労士が作成した定型文で周知されているとは言い難く、親も実行していません。一方、元請からは年齢基準とした作業制限が言い渡され、65歳で脚立作業禁止。これが実質的な引退通告です。
先に65歳を迎えた担当者は、これに対処すべく苦闘の60代前半を過ごしていました。電気錠の扉加工など脚立を使用しない工種にチャレンジしながら、一社下請の枠外にも活路を見出すべく新規顧客を開拓します。また、これまで現場の合間に行ってきた社内雑務も本業として取り組みます。現場で発生するゴミも産業廃棄物であり、分別自体が一仕事です。さらに、当社では手薄だった動力や高圧電気工事も担当すべく、68歳で第一種電気工事士免許を取得しました。最終的に複数の顧客を抱え、71歳を迎えた今も現役として現場で活躍しています。
そして先月、パンチパーマのおじさんも65歳を迎えました。今は銀髪でパンチパーマでもありません。今後の働き方は本人の体力、気力、家庭の事情など様々な要因が絡むため、会社で一律には決められません。グランベリーパーク工事では現場総監督として町田まで通ってもらいましたが、現場一筋で生きてきた以上、管理や営業など他の仕事に移ることも抵抗があるでしょう。逆に金銭的には年金を加味した生活設計が可能になり、もはや働く必要がないかも知れません。
最終的に、65歳から1か月勤務を延長し、46期決算日となる5月31日を最終出社日として39年におよぶ当社生活に終止符を打つこととなりました。当社初の定年退職です。
家業を継ぐ決断をした最大の要因として、私がお世話になったおじさん達の引退を見届けるよう母から哀願されたこともあります。とは言え、誰もこれで人生が終わるわけではありません。最後の仕事は机や作業車の中など39年分の片付けですが、今後も現場の手が足りなくなれば、父が私にしたように出動要請しようと思います。その時は、いつものように「しゃーねーなー、やってやるよ!」と返してください。
髙木さん、お疲れさまでした。