父の創業は私が1歳で妹が生まれる前、会社設立は6歳の時でした。父が手塩にかけた息子同然の当社は、私にとっては弟同然。創業50年を記念して過去の事務所跡地を訪ねながら、創業者の子ども目線で歴史を振り返ってみます。

①初代本店(1973~1978)

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千葉市若葉区桜木6丁目、京成バス「兼坂」バス停


 当時住んでいた借家です。多くの零細企業がそうであるように、本店所在=創業者住所です。私が物心つく前から小学1年の年末まで住んでいました。6畳、4.5畳二間の木造平屋で、国道51号線バイパスに伴う用地買収で建てられたそうです。周囲は「道路用地」の看板が立つ原っぱの他は栗畑と落花生畑が広がり、トイレは汲取り式でした。
 家の前には駐車場と物置があり、そこが資材置き場でした。幼稚園時代、母と、一歳上の大家さん娘と「銅線の皮むき(廃棄IV線の被覆除去)」を遊びとして手伝った記憶がありますが、母は全く覚えていないようです。また、母が勤しんでいた買い物スタンプの台帳貼りが幼稚園児には面白く手伝っていましたが、その流れで注文請書や領収書への印紙貼りも私の担当でした。普通は「赤(100円)」、100万円を超えると「緑(200円)」、さらに200万円を超えると「黄色(400円)」と貼っていましたが、幼稚園児には「請書」と印紙不要な「請求書」との違いが分からず、「真ん中に一文字増えるとスタンプ貼らないなぜ?」と不思議に思っていました。
 自宅にはよく仕事の電話がかかってきました。幼児ながら一人で留守番することも多く母を真似て電話を取っていましたが、電話口から「子どもが出たよ」と嘲笑する声が聞こえてくることもしばしばで、悔しくて受け答えを練習していました。
 それから45年、当時の入口はバイパスに向く大型店舗の裏口となっていますが、一部残る里道に「かくれんぼ」で遊んだ思い出がよみがえります。

②初代千葉事務所(1977~1979)

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千葉市若葉区桜木6丁目 京成バス「桜木町」バス停


 会社設立前、幼稚園の時に近所の倉庫を借り、幼稚園帰り母に連れられて資材整理をするのが日課になりました。新たに電話回線も引いたことから、自宅への仕事の電話は減りました。隣が赤ちょうちん&縄のれんの居酒屋で、よく父を迎えに行きました。ある日、居酒屋のカウンターで水色のシャツを着ていた父と思い声をかけたら別人で、驚いて大泣きしたところ周りのおじさん達に大ウケした、という記憶が妙に残っています。
 同じく当時の記憶をたどる限り、現在は取り壊されて戸建て住宅になっているようです。

③2代目千葉事務所(1979~1983)

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千葉市若葉区桜木3丁目 京成バス「桜木町」バス停


 自宅が現在地に転居した直後、事務所は転校前に通学していた小学校の近所に引っ越しました。この1年間は会社設立、自宅購入、事務所移転と大きなイベントが続いています。第1期の決算書には、これに伴う借入金が記録されています。なお、現在も当社で使う看板は、ここ製作したものです。
当時の看板は電話番号だけ書き換え今も健在

ここで製作した看板は電話番号だけ書き換え今も健在


 建物は1階が土間、2階が畳敷きで、入居時の掃除で真新しい緑の畳は「茶殻を撒いて、目に沿って乾拭きする」ことを母から習いました。仕事を終えた後、粉末ミルクに砂糖を入れてお湯を入れた飲み物をもらい、おいしかった記憶が残っています。
 小学生時代、放課後に資材搬送などで母に連れられ事務所経由で現場に向かうことがよくありましたが、事務所でたまに麻雀の得点計算表を見つけました。また、一度実際に麻雀ゲーム中に事務所に行ったことがありますが、従業員から「(対面に)並んでいる牌の漢字を読んでみよう!」と言われた覚えがあります。おおらかな時代でした。
作業車用の駐車場は2台ありましたが、その後事業規模が拡大し手狭になって引っ越しました。現在は更地となっています。

④木更津事務所(1980~2002)

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木更津市長須賀 小湊バス「畳ヶ池」バス停


 当時の国道16号線沿い、久留里線踏切近くの小学校に隣接していました。小学校時代は母についてよく資材を運んでいました。当時高速道路開通前で渋滞もひどく、片道2時間程かかりました。下校すると母から「行く?」と聞かれ、旅行気分で車に乗り、助手席でナビを務めていました。6年生の時、一度作業車回送のため終電で木更津まで行き、帰りは寝て帰ってきた記憶があります。
 当社初の支店でもあり、両親もマネジメントにはそれなりに苦労したようです。Faxで送られてくる日報の終業時刻と当日の工事作業量がどうも合わず、ある日抜き打ちで乗り込むとfaxに送信タイマーがセットされていた、という昭和時代のエピソードは私が何歳になっても覚えているものですね。おおらかな時代でした。
 2階はやはり畳敷きで、一時は寮として工事担当者が住んでいました。高校大学時代のアルバイトでは何度か泊らせてもらいました。建物は2軒並びの貸家で、隣はお好み焼き屋さんでした。入居当初に母に連れられ一度妹と食べた記憶があります。海の幸をふんだんに使い評判の味だったそうですが、残念ながら覚えていません。小学生には早すぎたのかもしれません。
 現在は2軒とも取り壊され、更地になっています。

⑤3代目千葉事務所(1983~1989)

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千葉市若葉区貝塚町 京成バス「車坂下」バス停


 小学校6年の時に引っ越しました。道路向かいに当時の主要仕入先だった電材屋があり、その紹介で川沿いの田んぼ埋立地に移転しました。機械警備工事を業としながら盗難に遭うなど色々トラブルがあったそうですが、私自身はこのころから会社とは縁遠くなり、この辺りは母の愚痴が情報源です。ここで借家に見切りを付けて、平成バブル最盛期に現在地を購入、移転しました。
 現在は食品工場が入居しており、敷地形状も変わっているようです。

⑥成田事務所(1987~2003)

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成田市大清水 JRバス関東「大清水」バス停


 私の高校入学時に3店目を開設しました。この頃になるとさすがに母のドライブに付き合うこともなくなり、ほとんど記憶には残っていません。今回唯一場所が分からず、当時を知る担当者に場所を聞き現地を訪ねたものの、やはり思い出せませんでした。主要県道沿いですが、記憶の中では泉が近所にある脇道沿いだった気が。。母に確認すると、途中の抜け道と勘違いしていたようです。
 とはいえ、当社史上唯一の転居を伴う転勤を命ずるなど、父が経営者として組織化に取り組んでいた証だった、と改めて実感しました。当時母も「事務所が汚いけど一々掃除に行けない」など愚痴をこぼしていました。私自身の記憶は平成バブル期に学生アルバイトとして出社したこと位ですが、ある日の新築工事で前工程の進捗が遅れ作業できなかったことがありました。早々に事務所に戻った所長が「親父には内緒」と言いながら競馬の予想を始めていたことを思い出しました。おおらかな時代でした。
 現在は建替えられ、食品専門商社の事務所となっています。