2023年10月18日、千葉水球クラブ前リーダーの古宮一郎さん(享年71)がお亡くなりになりました。私にとっては、父以上に人生観に影響を受けた恩人です。哀悼を込めて、当時の思い出を振り返らせていただきます。
前回からの続き
県総体が終わりました。母校県立千葉高校の試合は別会場で行われていましたが、私がコーチを務めた八千代松陰高校と共に初戦敗退となりました。元々3年生の人数が少ないうえに大黒柱のフローター(センターフォワード)が前日に交通事故に遭い欠場、攻め手がなかったようです。
そして高校生は期末試験を経て夏休み、3年生は受験モードに突入! というのは建前で、それぞれ未練を断ち切り水球魂が成仏するまでプールに入り浸ります。当時母校では卒業生の3分の2が浪人し、特に運動部では「受験勉強は高校卒業後」という空気が流れていました。一方、八千代松陰高校は私立高校の充実した進路指導により3年生は釘を刺されていたようですが、それでも4月から3か月間私と苦楽を共にした仲であり、時折気分転換を兼ねて顔を出してくれました。
ともあれ、2年生を中心とした新チーム作りが始まります。八千代松陰2年生部員は14名。マイナースポーツの極北にある水球において、1学年でベンチ入り13名を超える高校チームは全国大会でも中々お目にかかりません。また戦力的にも「泳ぎの速さ」「肩の強さ」「巻き足(立ち泳ぎ)の強さ」など、それぞれのポジションに適した地力のある選手がそろい、県内でも注目されています。古宮さんは「このメンバーと一緒に関東(大会)に行ってこい」と東京工業大学水球部を退部したばかりの私を送り込みました。
古宮さんは、母校が千葉県内で初めて水球チームを発足させた年に高校に入学、その後は千葉国体などスタッフとして水球に通じ、千葉県が全国的な強豪だった当時は、柔和な表情とは真逆の厳しい練習メニューを組む鬼コーチとして恐れられていたそうです。その後私が高校2年当時に母校コーチとして戻ってきましたが、その間も水球の試合を見続けるなど接点は持っていたようです。小柄で長髪、アロハシャツに短パンサンダルの風貌と、日本に数台しかないという希少なクラシック外車ポルシェ356で会場に乗り付ける派手な振る舞い、そして長いキャリアに裏打ちされた奇策を強豪相手にも臆することなく繰り出す業師として、良くも悪くも知られた存在でした。
当時、一説によると高校水球チームは全国合計で約200校。各都道府県とも実施は数校のみで、元日本代表選手が国体強化指定校に体育教諭として赴任し生徒を徹底的に鍛え上げて優勝を狙う、もしくは全国の中高一貫私立伝統校が文武両道の英国式伝統競技として水球を導入する。というパターンが多かった印象です。一方、千葉県内では22校と数の上では全国を圧倒していました。インターハイ、国体の優勝経験がある強豪県立安房高校や東京五輪日本代表監督を輩出する千葉市立千葉高校(母校とは別の学校)では、毎年複数の卒業生が大学卒業後に体育、理科、社会などの教諭として千葉県に戻り、それぞれの赴任校で水球チームを立ち上げていました。私の高校時代から先生同士の仲が非常に良い印象を受けていましたが、実は高校時代のチームメイトだった、という種明かしを教えてもらいました。
他方、水球に縁がないまま顧問を引き受けた学校の先生の一部は、自然と古宮さんに相談するようになっていました。中でも競泳では日本代表を輩出するなど全国的強豪の千葉商大付属高校のベテラン田山先生とは頻繁に連絡を取り、合同練習をおこなっていました。その成果か、この年の総体では強みの泳力を最大限に発揮してノーシードの2部リーグから1部強豪校を次々と撃破、見事初優勝を飾りました。
そしてもう一人、八千代松陰高校の若手米田先生がいました。県立船橋高校水球部の一期生とのことですが、大学では水球とは縁がなく、生徒主導で立ち上げてから5年目を迎える水球部の顧問として強化に腐心していたそうです。そこで古宮さんに相談し、その一番弟子である宮下の派遣を受け入れることとなりました。
新チームの組成に当たり、古宮さんに相談しました。曰く「強いチームは王道で」とのこと。思い起こせば、母校で最強世代だった3学年下に対しては、入学直後から毎日練習前に「400m×10本6分サイクル」という素人離れした泳ぎ込みを課していましたが、彼らは高校卒業後も筑波大、東大などに進み主力として活躍していました。一方、我々の代に対してはコーチ復帰直後だったこともあってか「馬なりの調教」でしたが、接戦を落とし続けたことで逆に基礎練習の重要性を痛感したようです。たまに参加するOBとしては、ともすると練習にもボールゲームとしての「楽しさ」を求めてしまいがちです。しかしながら、公式戦勝利を目標として毎日練習に付き合うコーチの責任においては、より高いレベルで水球を楽しむ必要条件として基礎練習の意義を伝え、実践してもらうことが重要、と私はその真意を受け取りました。もちろんただつらく、つまらないのは勘弁です。スイム練習でも競艇(ターンと競り合い)やオートレース(追い抜き)など「古宮流」としてメニューを工夫しました。
部活終了後は、学校近くのステーキハウスで米田先生にご馳走になりました。私からは古宮さん受け売りの語録を披露し、米田先生からは職業としての私立高校教員話などを伺いました。そのまま独り暮らしの先生宅にお邪魔し、泊らせてもらったこともありました。このとき、教員として生徒と水球にかける人生も夢想しましたが、私が学ぶ社会工学科で取得できる教員免許は「工業」のみだったため断念しました。これが名前の通り社会科も取得できたとしたら、いまごろどこかの高校で水球を教えていたかもしれません。
いざ、新人戦
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夏休みの終わり、新人戦予選リーグが行われます。4ブロックに分かれた5~6チームが土日で総当たりを行い、見事全勝。Aシードとして9月末の新人戦本戦に臨みます。ここで3位以内に入れば、翌年の春季関東大会の出場権が得られます。Aシードは全国レベルの実力校である千葉敬愛高校、県立安房高校と我が八千代松陰高校、そして母校県立千葉高校が「古宮マジック」で勝ち上がってきました。
Aシード校はいずれも順当に勝ち上り、ベスト4で決勝リーグが行われます。1日2試合のため体力温存を図りながら、他チームの試合をスカウティングします。やはり上位2校の強さは突出しています。
そして県立千葉高校との試合が組まれた新人戦最終日の朝、相手チームのコーチである古宮さんが話しかけてきました。
「いやー、高橋が肩痛めちゃってさー、まともに泳げないんだよ。」
チーム一のスプリンターの負傷情報を暴露しました。たしかに同じ高校の5学年後輩ではありますが、その時の私の立場は大一番の対戦相手。海千山千の古宮さんが、敢えて自チームに不利な情報を伝える真意を測りかねました。確かに、前の試合では全力で泳いでいませんでした。
私は試合前のミーティングでこれを伝え、選手には「勝ちに行くのなら、ここを攻めるのが最善だが、、」と選手に判断を仰ぎました。これに対し、選手は「やりましょう」。前半から点差を広げ、最終的にダブルスコアで快勝。見事3位としてチーム史上初の表彰状を受領するとともに、翌年度の春季関東大会出場権を獲得しました。
表彰式終了後の歓喜の輪の中で、1年生の女子マネージャーから声を掛けられました。
「宮下さん、今日負けたらぶっ飛ばしものでしたからね!」
私はハッとしました。確かに、若手OBも数いる中で敢えて他校卒の大学生をコーチとして呼ぶことを「面白くない」と思った人もいたことでしょう。私はただ単に仲間に加わった訳ではなく、勝利という目標のために役立つ存在としてチームに呼ばれていたこと、そして3年生夏の総体で一度失敗しコーチとしての指導力に疑念を持たれていたことを、最後に自覚することができました。
こうして、私の八千代松陰高校でのミッションは、完了しました。家業都合で大学水球部を辞めてできた大きな心の穴を、時間的にも心理的にも古宮さんに埋めてもらいました。この年、関東学生リーグでは東工大チームも3部を勝ち上がり2部に昇格しました。私がいてもいなくても、チームは回り続けます。
後日、古宮さんが私に選手負傷情報を伝えた真意を聞きました。回答は「強い方が関東大会に行った方が良いよね」とのこと。そういえば、ハーフタイムのベンチ移動で古宮さんは私と目を合わせませんでした。古宮さんの目には私が気付かない弱点が見えていたのかもしれません。チーム力的には八千代松陰高校が上だったとは思いますが、試合展開によっては私が「古宮マジック」に引っかかり、ベンチ力の差で負けていたかもしれません。そうなると、八千代松陰高校にとって私は本当に「ぶっ飛ばしもの」でした。実力通りに勝たせてもらった温情を感じながら、古宮さんの引き合わせで巡り合った「人生で一番熱い夏」が終わりました。
関東高校水球大会2025
今年6月、国際武道大学を退官された土居先生からお声がけいただき、高校卒業生の採用リクルートとPDCE営業を兼ねて、春季関東大会の前日練習にお邪魔してきました。会場設営は地元埼玉県のチームが行っていましたが、当社ブログへの写真掲載についても快諾いただきました。

会場設営担当の埼玉栄高校は8月インターハイで準優勝!
担当の市立川口高校橋本先生は国際武道大学卒とのことで、7月の関東大会プログラムに当社としてPDCEの協賛広告を出稿しました。水球との縁はまだまだ続きます。
まだまだつづく