自己紹介の通り、私の出身は東京工業大学工学部社会工学科。今でこそ各大学で「社会○○工学科」という名前を多く見かけるようになりましたが、私が入学した30年前は他に筑波大学(社会工学類)にしかありませんでした。
 私がこの学科を発見したのは高校3年の秋。部活(水球)が終わり、11月の全国大会県最終予選に勝ち進んだサッカー、ラグビー部員以外が受験一色に染まる頃、私は未だ進路を決めかね、勉強に身が入らない状態が続いていました。そんな中、偶然チャンネルが合った放送大学で「都市計画」という番組を見かけ、講師の阪本一郎先生が東工大社会工学科助教授であることを知りました。就職活動時に来るであろう不景気(バブル崩壊)を予測し理系に進むも、文転しようか、いっそのこと体育大に行こうかと妄想していた私にとって、やっと「やりたいこと」を見つけた思いでした。
 とはいえ、そこから合格レベルに達するはずもなく浪人。初めての通学定期で1年間の予備校通いを経て東工大第6類(土木工、建築学科とのグループ)に入学し、2年次に晴れて社会工学科所属となりました。

 社会工学科(社工)は1967年設立で、人文・社会科学と工学との融合を掲げ、都市計画の他、公共政策、地域計画、計画数理、環境アセスメント等の学際的な領域が並びます。有名どころでは「KJ法」で有名な川喜多二郎先生も設立に参加しています。
 東工大の中では文系とも俗称され、他学科では実験室に籠るところを、社工では「フィールドワーク」として小学生の校外学習のようなことを全力で行います。また、製図室もありますが、建築学科のような鬼気迫る建築製図課題ではなく、「リゾート施設の全体図&パース」「学内駐輪場計画」のような調査結果をまとめたプレゼンテーションの色彩が強いものでした。また、当時は元NHKキャスターの宮崎緑氏が非常勤講師として、タレントのマリ・クリスティーヌ氏が大学院生として在籍する等、華やかな雰囲気もありました。4年次には各研究室に所属し卒論指導を受けますが、都市計画は人気が高く人数調整が必要となりました。最終的に当事者間で協議の末に麻雀(ハコテンで辞退)で決めることとなり、2日徹夜の激闘の末、無事所属することができました。
 私の指導教官は中井検裕先生。後の都市計画学会長ですが、当時30代、年度途中の8月に明海大学不動産学部から異動され、私は一期生に当たります。私自身は学部卒で就職したため実質半年のみの指導でしたが、卒業後家業承継について相談した際には「それも社会工学、みんな社会工学」と背中を押してもらうとともに、同じように家業を承継した社工の先輩を紹介していただきました。

 先日、父の遺品整理を兼ねて実家を片付けていたら、「社会工学演習」のテキストが出てきました。

「社工計画演習第二」テキスト

「社工計画演習第二」テキスト


 この演習では、学部3年生がそれぞれチームに分かれ、プロジェクトリーダを務める大学院修士1年生と共に社会課題に対し提言を行います。当年のお題は「年間労働1800時間の達成に向けて」。私と同じく自営業の家に生まれた同級生も複数いて「家業あるある」で盛り上がりました。中にはガソリンスタンド経営のお父様が年間3600時間労働という話もありました。私のチームは看護師(当時は看護「婦」)について取り上げ見事最優秀賞。表彰式にて優勝カップでビールを回し飲みしたのも良い思いです。
 なお、政府統計によると現在日本で正社員の平均年間労働時間は1800時間を切りましたが、当社は未だ道半ば。大学での課題に30年経った今なお取り組んでいます。
厚生労働省 「毎月勤労統計調査」 (独)労働政策研究・研修機構

厚生労働省 「毎月勤労統計調査」
(独)労働政策研究・研修機構

 その社工が、大学組織改編に伴い50年の歴史と共にその看板を下ろすこととなり、カウントダウンイベントとして各界で活躍する卒業生によるシリーズ講演が行われました。私はちょうど真ん中の26期ですが、私の親世代でもある創設期の大先輩方は古希を迎えなお熱く、人生において仕事と学問を楽しむことの重要性を改めて教えてもらいました。そして2019年3月、最終50期生の卒業に合わせて記念式典が行われました。私も微力ながら同期、部活などの伝を頼っての講師依頼や告知などの裏方でお手伝いを続け、無事大団円を迎えることができました。

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DSC_3846 社工会50周年記念パーティ

 ところで、学科同窓会としてオンラインで講演会および総会が行われましたが、そこで私が副会長の拝命を受けました。主流を離れた千葉の下請工事屋として何の貢献ができるか未知数ですが、今後も「知的なゆるいつながり」が続けば望外です。