前回からの続きで、
父は15歳で上京、自衛隊入隊しました。当時、地元最寄りの鹿児島県大隅大川原駅から所要40時間の「高千穂」という東京行き急行列車があったそうです。
この話を聞き、私は中学卒業時に初めて一人旅にでました。場所は、それまで未踏の地だった山陰地方。卒業式後、仲の良かった級友とそれぞれ地域を選んで日本各地に散って最後に土産話を持ち帰ったのも良い思い出です。当時の周遊券切符は最高の思い出です。
そして今春、私の長男が中学を卒業しました。彼が生まれた時から「15の春にすごい冒険をさせよう」と勝手に意気込んでいましたが、コロナ禍で断念。おまけに、彼の中学校は生徒数減少で統合対象となり、思い出の母校もなくなります。そこで、同じく廃校となった父の出身校が、宿泊できる地域施設として再生されているので、ここに父子二人旅を敢行することとしました。
往路は空路宮崎空港に入り、同駅からJR日豊本線各駅停車で大隅大川原駅へ、
ここから徒歩15分ほどで「たからべ森の学校」に到着します。
到着後、まずは墓参りや旧家跡の確認を済ませ、昔遊んだ近所の小学校を見た後、昨秋紹介いただいた地元の林業専門家に父から相続した土地を見てもらいました。現在材木は集成材が主流であり、太くなりすぎるとかえって商品価値が下がるとのこと。現在丁度切り頃とのアドバイスをいただきましたが、おそらく私の祖父が仕込んだであろう貴重な財産を私がもらって良いものか、難しいところです。丁度今年から森の学校では林業教室も始まったとのことで、そこで何らかのご入用があれば、と提案することも今回の目的です。さらに言うと、父に続き私も相続土地を放置したまま死んだ場合、今度は自分で管理しなくてはならない、ということを長男に自覚させるためでもあります。
さて、森の学校を運営するのは鹿児島市のIT企業有限会社サイバーウェーブで、社長の小野さんは私と同世代。 元々曽於市のwebサイト構築を受託した縁で、廃校の跡地活用案募集の広報を頼まれた際に「それなら」と自分で立候補したとのこと。そこでカフェ、宿泊、さらに職業体験施設と間口広げていったところ、自然と地元でコミュニティが広がったそうです。昨秋からは九州を一周する観光特急「36+3」の大隅大川原駅での歓迎イベントも手掛けています。
宿泊施設は「星の宿」という名前で、教室がそのまま使用されています。首都圏の緊急事態宣言解除直後ということもあり当日の宿泊は1組のみで、グランピング風内装の特別室(値段は変わらず)を使用させていただきました。
なお、宿泊客がいる日のみ宿直室に泊まり込みとのことで、今回は我々親子に付き合っていただきました。コロナ前は体育館を利用したスポーツ合宿などで中々予約が取れないほどの盛況だったそうですが、やはりこの1年間で「風向きが変わった」とのこと。元IT屋の中小企業診断士としては他人事とは思えず、つい突っ込んだ話になってしまいます。予算1兆円の事業再構築補助金についても話題がおよび、採択率が高いとされる初回申込に向けて準備を進めているようです。やりたいことを見つけ、実行できる事業姿勢は羨ましい限りですが、小野社長の話を聞いているうちに、私は「家業」の名の下で無意識にブレーキをかけているだけでは?と感じるようになりました。
翌朝、最終日は雨に降られてしまい、山には入れません。そこで、昨秋マネジメントゲーム研修で一緒だった川南さんに、再び会場のブックカフェ「きりしま月の舟」に連れて行っていただきました。当日は「みそ玉」を作るイベントがあり、長男はこちらに参加。その後ランチもいただきました。長男は国語が苦手で高校受験も苦労しましたが、文学博士でもあるオーナー夫妻に読書を楽しむ手ほどきを受けていました。
そして、帰りは陸路日豊本線回りです。父の上京時は直通急行で30時間だったらしいですが、今回は特急を宮崎で乗り継いで小倉、最終の新幹線で姫路、寝台に乗り換えて東京、という同行程を17時間で進む予定です。この話を聞いた川南さん、お子様が鉄道好きで提案してみるそうです。ちなみに川南さんのお祖父様は国鉄運転士で、終戦直後の日豊本線でお召列車を運転されたとのこと。父はこれを沿線で見たと語っており、意外な縁に驚きました。
いざ出発。店前のバス停「東多羅」から霧島神宮駅へ。まずは特急「きりしま12号」に乗り宮崎にむかいます。
ここから父の上京に思いをはせながら今後の人生について語り合いたいところでしたが、お互いすぐに寝てしまいました。
長男は私と同様、家業を継ぐ気は全くありません。事務所で何度か「おばあちゃんのお手伝い」もさせましたが、家事育児と並んで仕事をしていた私の幼少時とは状況が違い、家業としての意識付けにはなりません。
社会学的には、私が「上京2代目」として会社勤めを続けていれば、息子たちは3代続いた都市住民としての人生が当然のものになったことでしょう。しかしながら、コロナ禍や少子高齢化などの社会環境変化は、戦後70年の人生設計モデルがどう変わるか分かりません。今後我が子達がどのような人生を歩むかは見当も付きませんが、彼らにとって「怖かったお爺ちゃん」が歩んだ人生の景色が少しでも見えてくれればよいかな、と思い今日も説教しています「勉強しろ!」