前回からの続き
大学3年生に進級しました。1年次に落とした自然科学(数学、理科)の単位を何とか取得し、晴れて「仮進級」の肩書が取れました。学部生活はあと2年、残り半分です。東工大の中でも文科系の色が濃い社会工学科では他学科のように実験室に張り付く必要もなく、企業インターンに泊まり込みで没頭する同期も現れます。私も水球部を辞めてできた時間を無駄にしたくはありません。と意気込むものの、そう簡単に見つかるものではありません。
そんな中、大学水球部退部を報告した古宮さんから、「八千代松陰高校水球チームのコーチをやってみないか?」と誘われました。当時千葉県では毎年チームが新設されましたが、その多くは強豪安房高校水球部の卒業生が大学で体育、社会、理科などの教員免許を取得し、新任教諭として千葉県に戻って赴任した公立高校です。一方、八千代松陰高校は文武両道をうたい、甲子園出場経験もある新興の私立高校。顧問の米田教諭は創設当時の県立船橋高校で競技経験があるとのことですが、チーム強化ついて古宮さんに相談し、私に白羽の矢が立ったようです。
20校以上が参加する当時の千葉県高校水球選手権は、前年新人戦の成績を基準に4部リーグに振り分けられます。当年の八千代松陰は2部所属ですが、私の4学年下となる3年生、2年生とも人数が豊富で戦力的にもバランスよく、何より水球好きがそろっているとのこと。ゴールデンウイークに練習試合会場で古宮さんから紹介を受け、早速翌日から練習に参加します。古宮さんのように放課後に到着すべく、私も午後から250ccバイクに乗って大学そばの下宿から東関東道千葉北ICを経由して日参しました。
リーグ戦開始までは1ヶ月を切っており、コーチとしてできることは限られます。とはいえ、水球は県内全チームのほぼ全選手が高校で始めるまで見たこともないマイナースポーツ。わずかでも経験値を上げることで格段に優位に立てることから、私の選手や審判としての経験が役立てばと思い、指導にも熱が入ります。「ボールを持った相手は捕まえて良い」というラグビーと同じゲーム思想を持つ水球ですが、前提条件として壁をけらずに水中を自由に動き回る泳力が必要です。これに対し、千葉県リーグはチーム数が多いゆえに選手間に泳力差がある場合も多く、さらに試合会場となる学校プールによっては水深の問題で物理的に足が付いてしまうことから、結果として対人接触が少ない「草水球」となりがちです。そしてほとんどのチームは対戦相手が県内で完結することから、関東大会以上に出場するか、大学で競技を続けない限り、水球本来の「当たり」を体感する機会がありません。私はここについて高校と大学のレベル差を説明し、具体的な対人技術とそれを支える基本動作の使い方を実際に示すことで、チームは「強力ディフェンス」に自信を持てるようになりました。
これが功を奏してか、チームはゴールキーパーの星崎部長を中心にまとまり、2部リーグ戦では1位の好成績を収めました。目標となる関東大会出場には、直後に行われるトーナメント形式の県総体で1部リーグ勢を倒して4位以内に入る必要がありますが、そのシード権を獲得しました。
そして迎えた県総体初戦の2回戦。会場は新設された県立船橋高校、温室プールとして新築され、サイズこそ25mですが、水深は十分です。ゴール前で守備を固める副部長が、試合開始から2回連続で相手フローター(センターフォワード)に対しボールが届く前にアタックし、反則退水してしまいます。気持ちが入りすぎているようです。あと1回で永久退水、今なら即座にタイムアウトを要求する場面ですが、当時のルールにはありません。やむを得ず選手交代し、落ち着かせます。そのまま第1ピリオドで4点のリードを奪われてしまいました。
その後も点差を縮めることができず迎えた最終第4ピリオド。選手は一発逆転を賭けて敵陣に残ることを主張します。当時の古宮さんが時に取る奇策ですが、確かに使うなら今かもしれません。これが功を奏し1点を返しますが、以後相手はゴールキーパーと2人掛かりでこれを封じてきます。そこで選手は「2人前残り」は主張し、米田先生も賛同しました。しかしさすがにこれは無理があります。私はプレスディフェンスからの速攻という正攻法を提案しましたが、星崎部長から「宮下さん、俺たちはいい試合をしたいんじゃないんです! 関東行きたいんです、勝ちたいんです!!」と叫ばれ、受け入れざるを得ませんでした。そのまま番狂わせのシード校初戦敗退で、3年生は引退することとなりました。多くの選手は大学で水球を続けることもないでしょう。
私はかける言葉も見つかりません。試合を見ていた古宮さんにそれを告げると、「終わったんだ。『お疲れ様』でいいんだよ」と言われました。もしかして、自分が立場を忘れ入り込み過ぎていたのかもしれません。
そのころ、綜合電設は
時は1993年、暴騰していた地価が反落し、バブル崩壊が喧伝され始めました。当社が請け負う機械警備工事は建設の最終工程にあたるため景気遅行性がありますが、他業アルバイトや就職活動には影響が現れていたようです。
八千代松陰高校からの帰り道、20期上の先輩秋山さんが経営する国道16号線沿いの交差点にある「喫茶かたふり」に立ち寄ります。開業から5年が経過し老若男女の常連がいますが、近くにある千葉大学の、特に地方出身の独り暮らしの男子学生が多いようです。ある日、秋山さんが「宮下の親父さんのところで、電気工事のアルバイトできる?」と尋ねてきました。宮崎出身で、同じく実家が電気工事屋の学生さんがアルバイトできるとのこと。早速父に話して面談、即採用です。
父は機械警備工事について防犯上の理由から「アルバイト、外国人、下請、前科者禁止(ただし、身内を除く)」と言い続け、私を使い続けていましたが、あっさりと宗旨替えです。というより、「都内で他業のアルバイトをするくらいなら、まず仕送り分を身内で稼げ」という真意だったことが、ここに至って見えてきました。
以後、高校水球部の同期や後輩を順次募り、現場に投入しました。全員が東大をはじめとする高学歴、仕事の飲み込みも早かったようで、ALSOKでは「綜合電設のアルバイトが無駄にすごい」と評判になっていたようです。そして私は、お役御免を得ることができました。 つづく
【注】現在は建設業法令遵守で、単発アルバイトができる現場作業は実質的にありません。