早いもので、9月も彼岸を過ぎました。公共の屋外長水路プールも8月末に千葉市、9月10日に東京都目黒区、15日に同港区と順次営業を終了し、夏の終わりを実感します。サラリーマン時代は「プール納め」と称し休暇を取って泳ぎに行っていましたが、今は足が遠のいています。
季節の移り変わりと言えば、母は資材倉庫の畑仕事でこれを感じています。
この時期はカボチャ、ししとう、オクラ、なす、とうがらし、ミニトマトなどが収穫期です。また、敷地隅にはミョウガが自生しています。 会社経理を嫁が引き継ぎ時間にも余裕ができた現在、母は昼間自宅に戻り、同年代のご近所さんに家庭菜園の農業指導もしています。採れた野菜類は自分やご近所さんで食べるほか、従業員にも配っています。また、キウイ、ニガウリなどが建物の日射遮蔽に働いています。
昨年は職場視察に来た新卒内定者のお母さまが、鈴なりのハヤトウリ「採り放題」に感激して(?)ご子息就職を承諾されました。
母は15歳で岩手県北の農家から集団就職1期生として上京しましたが、三姉妹の末っ子で「農作業をやりたくないのでOLになった」そうです。と言いながら、私が子供の時は父と共に近所の山林を借りて開墾していました。結局幼い時に見た情景が刷り込まれているのでしょうか。かくいう私も、工事現場でふとそう感じることがあります。
母の集団就職上京について、祖父は定時制高校への進学を条件としました。村会議員を務め、「林檎」という珍姓を活かしてテレビに出演する名物おじさんだったそうですが、末娘の15歳での決断については「どうせすぐに都会に飽きて帰ってくる」と軽く考えていたようです。それを聞いた母は意地でも帰らないと心を固めたとのことで、高校4年生(定時制)で自衛隊から編入した父と知り合い21歳で結婚。父が他界したため金婚式は叶いませんでしたが、もうすぐ上京60年、(私の)出産退職後に当社事務を始めてから50年近くになります。
駐車場に目を移すと、イチジク、柿、栗が食べごろです。今年イチジクは大量に実が付きましたが色づきが遅く、9月中旬に入って収穫期を迎えました。初夏はビワが旬でしたが、近年は野鳥に目を付けられ一足先に食べられてしまうため、人間はありつけなくなってきています。
ビワは父が最初に植えたお気に入りで、2階の屋根を超える大木に育っています。晩年のある日曜日、父はがん手術後にもかかわらず枝打ちためこの木に登り「ぎっくり首」になってしまいました。母は動転して救急車を呼びましたが、抗がん剤服用中であることを告げるとどこも受け入れてくれません。最終的にたどり着いた病院では脳転移と早合点され、問答無用で身体拘束&モルヒネ投与の終末医療を施されました。実際には都内の三井記念病院でラジオ波治療を受け、がん細胞は消滅していたのですが。。
この事件が、私に父の介護と母の限界を意識させ、実家に戻らせる決定打となりました。
私が高校生の時、森の中に移転した当社を見て、正気の沙汰とは思えませんでした。都市計画を専攻した大学時代には父に立地の再考も進言しました。ところが、コロナ禍になり都心居住からの揺り戻しも言われる今、森に囲まれ自宅から徒歩で通えた当社の立地は、父にとってはハワードの提唱した「田園都市」そのものだったのでは? と思えてきました。という私自身も、デベロッパーとして田園都市線沿線で働いていた時よりも田園都市的な生活を送っている、ことにしておきましょう。