神奈川県内にあるALSOK協力工事業者会副会長の株式会社槇通信牧瀬社長には、親子2代にわたってお世話になっています。牧瀬社長は父の2歳上でセキュリティ工事の開始も2年先輩であり、父もよく相談に乗ってもらっていたようです。私自身が面識を得たのは家業を承継したからですが、機械警備という新業界を立ち上げた「第一世代」が語る黎明期の話は熱く、50年の時を経ても楽しかった当時の様子が伝わってきます。私は父からこれを直接聞くことはありませんでしたが、私が20代の時に経験した商業施設の開業や、30代の時に「バブル」と呼ばれた最盛期の不動産投資ファンド業界で感じたものと同じ景色が見えていたことでしょう。
その牧瀬社長、何と私の高校の先輩でした! 高校2年生で神奈川県に転向するまで千葉第一高等学校(現 県立千葉高等学校)に通学していたことで、お互い驚いて校歌を歌って確かめたこともありました。そんな縁もあり、グランベリーモールや東京理科大野田校舎での電力見える化工事(普段行う大学研究室との共同研究とは別件)など、お互い地域的に補完する関係が続いています。
先日、槇通信から神奈川県横須賀市でSOSがありました。元請による事前調整が大幅に遅れ施工期間が半分以下に短縮されたそうで、帳尻合わせに振り回される下請工事屋の悲哀あるあるですが、この期に及んで泣き言は言ってられません。工事内容は屋外センサー設置工事で現場は自衛隊基地とのこと。当社の豊富な施工実績を見込んでの要請です。父は自衛隊出身で、最初に木更津駐屯地で施工を請け負ったときは偶然にも発注側担当者が同期で旧交を温めたそうですが、その点において今回の現場は特別な場所です。
武山駐屯地。ここには15歳で入校する高等工科学校が付設されています。そう、父の母校です。これまで「凱旋施工」と称して私個人のゆかりの地で施工する縁をいただいてきましたが、ついに「父&当社の原点」に到達しました。3月はどこも多忙を極め当社も千葉公園ドーム(競輪場)新築工事が佳境でしたが、何とかお手伝いすべく工程をやり繰りしてもらいました。そして、当社で父と30年以上苦楽を共にし、自衛隊での工事に長く携わった昭和入社のベテラン職人に、1日だけ横須賀までの遠征に付き合ってもらえることになりました。
ところが、ここで痛恨のミスが発覚! 当日は私の長男の中学卒業式でした。しかも、生徒減少により残念ながら今年で閉校となるため「最後の卒業式」です。自分の間抜けぶりに呆れるばかりですが、私を中学時代から知るベテラン職人達には「いつものこと」。卒業式自体も緊急事態宣言下で簡素でかつ前述の通り生徒が少ないこともあり短時間で終わることから、お言葉に甘えて卒業式会場から電車、バスを乗り継いで現地に向かいました。
現地には午後2時頃に到着。当日の工程はセンサーやカメラを取り付けるポール建柱の力仕事でしたが、槇通信と当社で協力し作業はほぼ完了していました。
予定された工程が完了し両社の工事担当者とあいさつを交わした後、もう一つの目的である高等工科学校本部を訪ねました。事前に連絡をしたところ、卒業アルバムも用意していただけるとのこと。当日は同校同窓会「桜友会」を担当する総務班と広報班の方に対応していただきました。お二方とも同校を卒業し父の後輩にあたるとのことで、先輩遺族としての訪問を歓待していただきました。早速一緒に卒業アルバムにをめくりましたが、なぜか父の姿はありません。名簿のデータベースを見る限り卒業期「第6期」で間違いないはずです。よく見ると、そのアルバムの内表紙には「寄贈 卒業生○○一尉」の文字があり、中の写真もその方の帰属する「第4中隊」のみでした。どうも、父が通った「生徒教育隊」は、その後改組された「少年工科学校」「高等工科学校」と同じ「少年自衛隊」と通称されるものの正式な組織上の継続性はなく、このアルバムも公式資料として保管されたものではなかったようです。そこで、私も実家を探すこととして、桜友会名簿に「物故」の文字を加えてもらい、今回の顛末を本ブログに記録する許可をいただき、父が10代後半を過ごした母校を後にしました。
帰社後、母に顛末を話したところ、自宅に父の卒業アルバムがあるとのこと。確かに第3中隊の一員として集合写真に父の名前がありました。 DSC_0912
父母は千葉県立佐倉東高校定時制4年次に出会いましたが、実はそれ以前に父は帝京高校で卒業資格を得ていたとのことで、同校には近所の下志津駐屯地に勤務する傍らで大学入学に向けた自主勉強を目的として通学していたことを、今回初めて聞かされました。母はアルバムに載る父の同級生も多数紹介されたことがあるそうで、懐かしそうに当時を語っていました。私はこのアルバムを高等工科学校に寄贈しようかと思っていましたが、母からは「それは私が死んでからにして」と止められました。